里山とイルミネーションそして伊豆の踊子―看護学校50周年に寄せて― 私が本校にお世話になったのは今から15年前のことです。そのころ私は故郷である小湊鉄道沿線の飯給駅周辺で里山整備の活動を始めた時期でした。私の授業は准看の1年生と2年生の国語です。授業期間はほぼ9月から12月までの間です。この間の里山の活動はイルミネーションの飾りつけでした。授業の中でしばしばその話をしたために多くの方が小湊鉄道のイルミネーションを見に来て下さいました。そしてイルミネーションの機材はLEDに代わる時期で材料費が高くなってきました。私は看護学校から頂く報酬の大半はイルミネーションを中心とする里山の活動に充てました。従って看護学校の活動がそのまま里山整備に繋がったといっても過言ではありません。 授業の基本となる教科書はメヂカルフレンド社の「国語」です。この教科書が私にとっては非常にありがたく、今では公立の小中学校及び高校からも消えてしまった日本文学の名作がたくさん載っていました。例えば宮沢賢治の「永訣の朝」や島崎藤村の「初恋」そして石川啄木の「一握の砂」などです。 中でもノーベル賞作家川端康成の「伊豆の踊子」に出会えたのは幸いでした。中学生の時に出会ったこの小説は私の青春時代歌謡曲の代表作としてヒットし人気女優を主演にして何度も映画化されています。作者自身が「ほぼ自分の体験を描いた」というように学生の主人公が屈託した心を抱いて伊豆の旅に出て旅先で出会った旅芸人の一行と道連れになり、その中の踊子に淡い恋心を抱くが旅を終えた下田の港で余儀なく別れる。という青春文学の永遠のテーマ「別離傷心」を絵にかいたようなストーリーです。昭和40年代、伊豆の踊子のモデル探しが盛んにおこなわれました。その傾向について作者は「作品のモデル探しなどは作者にとっては苦いことでゆるしてもらいたく、見ぬふりをしてほしいものだが踊子のモデルやその縁者の跡も分からないのは作者の稀な幸い、この作品をすっきり守っているかに思える」と書いています。そしてその後の多くのファンや研究者の努力にもかかわらず、踊子のモデルは20歳代の後半を最後にその跡が途絶えて今日に至るまで杳としてわかりません。今日の様々な情報網を駆使して調査しまたが、伊豆の踊子のモデルはやはり探し出すことができずにいます。看護学校の授業を通して若き日の疑問に向き合い継続的に研究できたのは大きな幸いでした。 作者川端康成は伊豆の旅から帰ったのちにわかに明るくなり雄弁になったと友人が語っています。そして彼は伊豆の踊子の面影を宿していると言われるカフェの女給に恋をし婚約にまで漕ぎつけます。しかしながらそれは一方的に破棄されてしまいます。その相手は研究しつくされ写真も経歴も墓所も明らかにされています。伊豆の旅を終えて衝撃的な初恋そして婚約破棄の事件を終えたのちに伊豆の踊子は世に出ます。作者が旅芸人の一行と共に旅をしたのはわずかに一週間足らずです。その中で、今となっては存在さえわからぬ踊子の思い出が不朽の名作を生み永遠となりました。 改めて人の心に残っているのは共に過ごした時間の長短ではないことを学びました。私は小学校・中学校・高等学校・大学等各種学校でも指導経験を持ちますが、看護学校の皆さんは目標を持ちひたむきに学ぶ姿勢において最も優れた教え子でした。■講師 国 語■40松本 靖彦
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